東京大 世界史論述 2014 解説 <授業で扱ったネタ>

論述データベース

19世紀のユーラシア大陸の歴史を通じて、ロシアの動向は重要な鍵を握っていた。ロシアは不凍港の獲得などを目指して、隣接する様々な地域に勢力を拡大しようと試みた。こうした動きは、イギリスなど他の列強との間に摩擦を引きおこすこともあった。

以上のことを踏まえて、ウィーン会議から19世紀末までの時期、ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について、西欧列強の対応にも注意しながら、論じなさい。

【指定語句】

アフガニスタン、イリ地方、沿海州、クリミア戦争、トルコマンチャーイ戦争、ベルリン条約(1878年)、ポーランド、旅順

【解答例】

ウィーン体制下において、神聖同盟の提唱やポーランド立憲王国の君主としてナショナリズムを抑圧するなど、「ヨーロッパの憲兵」として墺国と共に体制の維持に努めたが、19世紀を通じての南下政策は勢力均衡に変容をもたらす結果となった。

例えば、仏国との聖地管理権を巡ったクリミア戦争では、革命期で混乱していた仏国の台頭を許した。続くビスマルク体制下では、三帝同盟維持を目論むビスマルクが墺露の関係悪化を防ぐべく露土戦争を調停、ベルリン条約によって英墺にそれぞれ領土分割があったが、バルカン半島においてゲルマン対スラブの民族的対立を生む遠因にもなった。再保障条約の破棄後は、墺独との関係は急速に悪化、露仏同盟仏国と接近した。

南下政策失敗後、露国はアジア進出を目指した。それ以前よりイランからトルコマンチャーイ条約で獲得していたアルメニアを含むカフカス地方に加えて、清国との争いの末のイリ地方占領によってトルキスタン地方に進出した。両地方の進出は、インドを領有する英国の警戒を強めるものとなり、英国はインドの防衛線としてアフガニスタンを保護国化した。

東アジアでは北京条約で清国から沿海州を獲得、また、三国干渉後に清から旅順・大連の租借権、東清鉄道の敷設権を得てシベリア鉄道連と結させた。露国の中国進出は、朝鮮進出を目論む日本と、インドと中国権益を維持したい英国の接近を促し、英国の「光栄ある孤立」が解消する結果となった。

解説及び葛藤】

文章ごとに解説を。今回はボリューミーっす。

① ウィーン体制下において、神聖同盟の提唱やポーランド立憲王国の君主としてナショナリズムを抑圧するなど、「ヨーロッパの憲兵」として墺国と共に体制の維持に努めたが、19世紀を通じての南下政策は勢力均衡に変容をもたらす結果となった。

まずは結論から明記してみた。

ウィーン体制下(1815~1848)では、ロシアは小国(主にポーランド・ハンガリー・フィンランドを担当)のナショナリズムを抑圧し、「ヨーロッパの憲兵」として体制の維持に大貢献していた一方で、黒海・地中海方面への南下政策を敢行し大国間の勢力均衡を崩していく。

例えば、仏国との聖地管理権を巡ったクリミア戦争では、革命期で混乱していた仏国の台頭を許した。続くビスマルク体制下では、三帝同盟維持を目論むビスマルクが墺露の関係悪化を防ぐべく露土戦争を調停、ベルリン会議によって英墺にそれぞれ領土分割があったが、バルカン半島においてゲルマン対スラブの民族的対立を生む遠因でもあった。その後の再保障条約の破棄によって、墺独との関係は急速に悪化し、露仏同盟によって仏国と接近した。

ここが山場だったかな~。この時代、露仏独墺の外交関係の変化はマジで目まぐるしい。

クリミア戦争(1853~1856)よって仏国の台頭、露土戦争がバルカン問題のトリガーになったこと中心に記述。

以上を記述する際に、念頭においたのは、19世紀以降のヨーロッパの国際秩序の変遷だ。

以下の大局観は、どの論述問題にも利用できるから、自分なりの言語化は必要となる。

☆19世紀以降のヨーロッパの国際秩序☆

①ウィーン体制(正統主義に基づく勢力均衡)
②過渡期(東方問題・独伊の統一)
③ビスマルク体制(独国の安全保障・仏国の孤立)
④過渡期(英独の利害衝突・バルカン問題・仏露の接近)

④以降は、三国協商vs三国同盟という構図が生まれてWWIに突入。

大戦終了後はヴェルサイユ体制っていう国際体制(集団安全保障による)が敷かれていくっていうのが、一番ポピュラーな歴史観だよね。

上記の大局観を前提に、

「国際情勢の変化」についてロシアを中心に対国別で考える。

☆対オーストリア☆

ウィーン体制下では、「体制維持組」として相性よし。ビスマルク体制下では、「三帝同盟」の仲間であるが、件の露土戦争(1877)の講和会議で緊張関係が走るも、ビスマルクの仲介によって同盟関係は維持。ビスマルク辞任後、再保障条約が独露間で破棄されるので、「三帝同盟」は無効となり、バルカン半島において、パン=ゲルマン主義vsパン=スラブ主義という構図に。象徴的な事件はサライウェボ事件だ。

☆対ドイツ☆

ドイツ帝国宰相ビスマルクは、フランスの対独復讐感情を恐れて、ドイツの背後にある、ロシア・オーストリアとの安全保障を重視し、三帝同盟を結ぶ。とりわけ、ロシアとの安全保障を重視し、両国は再保障条約を締結

☆再保障条約☆

1887年締結。独露間の秘密条約。

ドイツとフランスが軍事衝突をした場合、ロシアは中立を守り、ロシアがイギリス、オーストリアと衝突した場合、ドイツは中立を守るという内容。三帝同盟は、潜在的に墺露間の敵対関係をはらんでいるため、いざという時は、ロシアとの外交を重視するというビスマルクの現実路線。(大ゲルマン主義とかいうイデオロギーをビスマルクは持ち合わせていない。)そんでもって、二枚舌外交。1890年にビスマルクが辞任するとともに、ヴィルヘルム2世が更新を拒否。

☆対フランス☆

第二帝政期(1852~1870)

クリミア戦争では聖地管理権を争い、パリ条約(1856)では黒海を中立化、18世紀に露土間で締結された、キュチュク=カイナルジ条約を無効化させた。

第三共和政期(1871~)

巧みなビスマルク外交によって、露仏の接近は防がれていたが、再保障条約の破棄後、露仏は急接近。これが露仏同盟(1891)。ロシアはシベリア鉄道建設時にフランスから融資を受けたのは有名。なおシベリア鉄道の起工は1891年。1890年ビスマルク辞任とセットで覚えよう。

③ 南下政策失敗後、露国はアジア進出を目指した。それ以前よりイランからトルコマンチャーイ条約で獲得していたアルメニアを含むカフカス地方に加えて、清国との争いの末のイリ地方占領によってトルキスタン地方に進出した。

アジア方面のルートその1として、カフカス地方とトルキスタンを明記してゆく。カフカス地方に関しては1828年のトルコマンチャーイ条約でアルメニアを獲得しており、南下政策挫折前なので、「それ以前より~」とい言葉を入れて、減点を回避。

☆カフカス地方☆

コーカサス地方ともいう。黒海とカスピ海に挟まれているのが地理的特徴。カフカス山脈の北側は、現在ロシア連邦に属しており、チェチェン紛争はこの地で起こっている。ザカフカースと呼ばれる南側は、グルジア・アルメニア・アゼルバイジャンの3国。地図によっては、グルジアはジョージアという表記になっているかも。20世紀に油田が見つかり、ソ連における経済的重要度が物凄く増した。

☆トルキスタン☆

この地域はいつか記事にしたいな。

大別すると、ウズベク人が定住する西トルキスタンと、ウイグル人の定住する東トルキスタン。19世紀のロシアの視点で見てみると、西側がコーカンド・ヒヴァ・ブハラの三国。東がイリ地方(現在の新疆ウイグル自治区あたり)だ。

④ 両地方の進出は、インドを領有する英国の警戒を強めるものとなり、英国はインドの防衛線としてアフガニスタンを保護国化した。

当然ここは、列強の対応の具体例パート。地図で確認するとわかるが、アフガニスタン地域の保護国化は、英領インド帝国の防衛線という引くという意味が強かったのだろう。

⑤ 東アジアでは北京条約で清国から沿海州を獲得、また、三国干渉後に清から旅順・大連の租借権、東清鉄道の敷設権を得てシベリア鉄道と連結させた。露国の中国進出は、朝鮮進出を目論む日本と、インドと中国権益を維持したい英国の接近を促し、英国の「光栄ある孤立」を解消する結果となった。 

ほんのり葛藤した部分。

日英同盟は1902年。問題文では「ウィーン体制~19世紀末」という条件ではあるが、「19世紀末のロシアの東アジア進出(因)→日英の接近(果)」っていう因果関係の「因」の部分だけ書いても仕方ないだろ~という気持ちが勝る。テーマはあくまで、イギリスを中心とした列強各国の対応・国際情勢の変化なのであって、とりわけ「光栄ある孤立」の解消は国際情勢上の大事件であるわけだから、俄然書きたい気持ちが勝った。

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